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今回は、こちらの本を選択しています。吉村昭氏の「北天の星---下巻」です。本の帯には以下のように紹介されています。
逃亡の途中、左兵衛は飢えから腐敗した鯨を食べて落命。五郎治は一人残され、幾度も絶望しながらついには帰国する。運命に抗(あらが)い生き抜いた男を、史実に基づき圧倒的な筆力で書き上げた歴史ロマン。
北天の星の下巻では、五郎治はゴローニン少佐と交換されるような形で帰国することになります。そして、ロシアにて見て来た牛痘法を実施することになります。緒方洪庵他が種痘館を開設する約40年前のことです。日本の種痘法歴史に関しては吉村昭氏の得意分野のはずです。著書もいくつかあり、読書した記憶があります。
さて、ようやく日露関係史を勉強したので、本来の目的である司馬遼太郎氏の「菜の花の沖」を読書する準備が整いました。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2正午頃には箱根西坂の三島市市ノ山新田手前に居ました。
征夷大将軍足利尊氏公建立七面堂跡という石碑がありました。そうか、足利尊氏は征夷大将軍と再認識しています。
直ぐに、市の山新田の道標に到着しています。こちらが題目坂というのでしょう。ガイドブックには、こちらの記載がありません。恐らく小時雨坂付近のことを言うのでしょうか?
この付近で、少々、困惑しています。旧街道が判らないのです。道なりに進む選択肢と、右折する選択肢があります。結果的には道なりに歩いていった記憶があります。このように旅に出て、迷うことも思い出となります。ガイドさんに引率されていく旅行では味わえないものが経験できます。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前11時半過ぎには箱根西坂の三島市三ツ谷新田付近に居ました。
松雲寺には、明治天皇史蹟という石碑がありました。行幸された際に立ち寄られたのでしょうか?
その近くには、名称は不明ですが、このような花が開花していました。綺麗なので撮影しています。
三島方面へ歩を進めると、富士山ビューポイントという看板がありました。こちらから右折してアジサイロードへ入ると富士山が綺麗に見えるのでしょう。梅雨の時期に来れば、アジサイが開花していて綺麗なのでしょうね。
この付近からは、このように遠く駿河湾、三島市内が望見できるのでした。雲がなかったら、もっと綺麗だったことでしょう。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前11時半前には箱根西坂の三島市笹原新田付近に居ました。こちらが、旧街道にあった標識です。なかり傷んでいます。文字も判読が困難です。
道標には笹原一里塚を示す刻印がありますが、どれが一里塚跡なのかは判りませんでした。
さらに、三島方面へ歩を進めます。こわめし坂を示しています。
こわめし坂は、別名下長坂とも呼ばれるようです。こわめし坂の由来は、「この辺りの坂があまりに長く、しかも急なので背負っていたお米が汗と熱でこわめしになった」とガイドブックに記載されています。こわめし坂は、写真のような坂となります。
今回は、こちらの本を選択しています。吉村昭氏の「北天の星上巻」です。司馬遼太郎氏の「菜の花の沖」を読書する前の日露関係史を勉強するための読書です。アマゾンでは以下のように紹介されています。
鎖国令下、ロシア艦が蝦夷地に来襲。五郎治と左兵衛は、オホーツクへ連れ去られた。極寒の地で待ち受けていたのは、貧困と差別、そして言葉と文化の大きな壁であった。日本へ帰るため逃亡をくわだてるが、いまや故郷は遠い。容赦ない寒気と苦難の旅路が始まった 。大スケールの傑作歴史長編。
こちらの本にもラクスマン、レザノフ、フォストフ大尉、ダヴィドフ少尉候補生、大黒屋光太夫、高田屋嘉平等が登場します。ラクスマン親子は大黒屋光太夫の帰国に関連し、レザノフは通商を求めて長崎に寄港しますが、幕府に通商を拒否され激怒してシベリアへ帰国します。激怒したレザノフが派遣したのがフォストフ大尉、ダヴィドフ少尉候補生の乗船する船で、エトロフ島、国後島等を襲うことになります。今回の主人公である五郎治は、フォストフ大尉等に拉致されてシベリア行となってしまうのです。近世日露関係史では、ラクスマン親子、レザノフ、プチャーチンを把握しておけばよさそうです。
こちらの本も10年以上前に購入したもので、2000年4/15の第1刷となっています。新装版でかなり文字が大きいです。「そこまで大きくなくっても読める」と思うくらい活字が大きいです。巻頭にシベリア、北海道、北方4島の地図があり、非常に助かります。
今日は祝日ですが日直で仕事場に出勤しています。朝8:20分頃には仕事場に入りPCの電源をonにしています。すると上のような表示がでました。Windows 10の更新プログラムがinstallされているようです。
しかし、PCの電源をonにしてから更新が終了しPCが使用可能となるまでに約1時間を要しました。本日、仕事場は休みのため時間的には余裕がありましたが、この更新の間、全く仕事になりません。
Windows Xpまではシャットダウン後に更新プログラムがinstallされ、PCへの再構築も終了していたはずです。そのため、次回、PCは直ぐに使用可能だったような記憶があります。
Windows 7以降、現在のような仕様になったと記憶していますが、以前のようなpatternに戻すことは技術的に不可能なのでしょうか?
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前11時前には箱根西坂富士見平付近に居ました。こちらは、芭蕉の句碑となります。「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」とあるようです。この付近は天気が良い日には駿河湾と富士の雄姿が見える絶景の地だそうです。
こちらは、振り返って写真撮影しています。通行不可であった旧街道が国道の向こうにあります。
さらに国道1号線を三島方面へ歩きます。すると「SKY WALK」なる看板がありました。
さらに歩くと、「三島SKY WALK 12月14日グランドオープン」とあります。ホームページによると日本最長富士を望む大吊橋とあります。駐車場にクルマがありましたが、グランドオープン前でもあり工事関係者だったのでしょうか。
当方は、一人でとぼとぼ旧東海道を歩いていますが、空を歩くとは何とロマンチックでしょう。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前10時半過ぎには箱根西坂山中城跡付近に居ました。旧街道には箱根八里記念碑があり、司馬遼太郎氏の歌が刻んでありました。「幾億の足音が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」とあります。良い句なのでしょうね。
ここでチョットしたハアプニングです。旧街道が工事中で通行不可となっていました。
笹山山中バイパスを作っているようです。
この辺りからは、遠く駿河湾が望見できるのでした。やや雲が掛かっていて残念でした。
工事標識赤線が旧街道で通行止めの箇所です。青線が国道1号線となります。しばらくは、国道1号線を歩くことになりました。
今回は、こちらの本を選択しています。吉村昭氏の「間宮林蔵」です。こちらの本を読書するのも2回目となります。本の帯には、以下のような解説があります。
謎多き探検家の波瀾万丈の生涯を描く歴史長編。樺太は島なのか、大陸の一部なのか?世界地理上の謎であった同地を探検して島であることを確認し、間宮海峡を発見した間宮林蔵。その苦難の探検行をリアルに再現し、幕府隠密として生きた晩年までの知られざる生涯を描く。史実の闇に光をあてる長編傑作。
間宮林蔵と言えば、間宮海峡の発見で知られた人物であることは有名ですが、人生の後半は幕府隠密として活動していたのはあまり知られていません。今回も、日露関係史を知る目的で、こちらの本を読書しています。ゴローニン事件に関しても記載がありました。こちらの本は2002年4月30日第24刷のものです。
次に、もう1シリーズの本を読書してから、本来、読みたい司馬遼太郎「菜の花の沖」を読書することにします。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前10時半頃には三島市山中新田付近に居ました。こちらは、山中新田を示す標識です。三島宿まで二里一町(約5Km)との記載があります。実際、歩行した印象ではもっと遠かったように記憶しています。
こちらの陸橋を使用して国道1号線を横切ります。標識には山中城跡と記載されているのが判ります。
山中城跡の案内図です。写真下の小さな赤い場所が現在位置を示しています。
案内には、以下のように記載されています。「史跡山中城は、小田原に本城をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)に小田原防衛のために創築したものである。やがて、天正17年(1589年)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、急ぎ西の丸や出丸の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の城主松田康長、副將間宮康俊の墓は今も三ノ丸跡の宗閑寺境内に苔むしている」とあります。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前10時過ぎには箱根西坂・大枯木坂付近に到着していました。すると、このような案内がありました。「埋もれていた一本杉石橋」とあります。案内前半には以下のようにあります。「願合寺地域では一本杉石橋と村上石橋の2ケ所の石橋が発見されました。江戸時代の古絵図によれば箱根旧街道西坂には9ケ所の石橋があったとされていますが、長い年月の間に地中に埋もれてしまい、その場所はわかりませんでした」とあります。
こちらは、案内板にあった一本杉石橋のイメージ図です。このような石橋があったようです。
石橋の下部構造は、このようになっているようです。
こちらは、恐らく平成7年度に行った発掘調査時の写真のようです。
案内の後半には以下のように記載がありました。「一本杉石橋は長さ約160cm、幅約60cm、厚さ約35cmの板状の石が6枚、旧街道を横切るよう斜め方向に敷き並べられ、板石を頂部としてアーチ状に掛けられています」とあります。
また、旧箱根街道では初めての石橋発見とも記載されています。今となっては小さな石橋ですが、当時、石橋を造設するのはその重量から大変だったでしょうね。
羽田空港へ移動する前に、こちら本屋さん内を散策します。生暖かい風が吹いています。開店まで少々、待機します。
沼津駅から東京駅までは、上野東京ライン普通列車グリーン車に乗車しました。7時32分沼津駅発宇都宮行きです。今回、上野東京ラインが沼津駅から乗車出来ることを初めて知りました。約2時間、車窓を楽しみます。今回の旅では、移動日の今日のみが雨と成りました。天候に恵まれ予定以上の行程が達成出来ました。
今回宿泊したホテルは、三交イン沼津駅前です。707号室に宿泊しました。
12時過ぎに静岡駅に到着しました。予定以上に行程が進みました。沼津へ戻ります。
第3次東海道徒歩の旅の四日目は、由比宿から薩た峠(さったとおげ、薩堆峠)を通過し江尻宿までの約13Kmの歩行を予定しています。江尻とは清水のことです。帰路を考えてJR清水駅付近で歩行を止めるかもしれません。今回の歩行区間で唯一、気がかりなのが薩た峠です。登坂がかなりきついかもしれません。標高90mとのことですが、旧東海道難所の1つのようです。
本来、予備日なのですが晴れているので清水駅から静岡駅まで歩いてみます。約10Kmのはずです。
さった峠を過ぎ、興津駅で休憩中です。天気が保ちそうなので、江尻(清水)まで向こうかと考えています。
さった峠の頂上へ到着しました。雲で富士山は見えません。
由比駅に到着しました。これから本日第の難所のさった峠へ向います。
由比宿本陣の馬の水呑み場には、多数の亀がいました。
本日の難所である富士川駅と蒲原駅間を無事通過しました。駅構内でしばらく休憩です。
午後からの天候が心配なので、ホテルでの朝食も取らず早めに出発しました。東名高速道路を潜り抜けました。
雨どころか、暑すぎて今日の行程を終了することにしました。沼津駅へ戻ります。
富士川を渡ります。大きな川です。
富士川の合戦で、水鳥の音に平家が逃げ出した場所が、こちらだそうです。
吉原宿左富士神社を通過しました。
天候が心配ですが、とりあえず原駅を出発します。伊豆半島上空には雨雲があるようです。
本来、沼津までの予定でしたが、明日以降の天候が怪しいので原駅まで足を延ばしました。予約しているホテルのある沼津まで戻ります。
一駅のみですが、三島広小路駅まで伊豆箱根鉄道線に乗車してみます。
飛行機の到着が遅延し、特急踊り子109号に乗車出来ませんでした。新幹線ひかり469号で三島駅へ向います。
夏季休暇を利用して旧東海道徒歩の旅を再開することにしました。初日は空路羽田空港へ移動します。その後、電車を利用して前回到着地の三島まで移動することになります。
JR三島駅から三島市本町付近への移動には伊豆箱根鉄道駿豆線を利用し三島広小路駅で降車しているかもしれません。1駅のみですが乗車したことのない路線ですので。
その後、沼津まで約6Kmを徒歩で移動する予定です。
JR三島駅までは、品川駅10:38分特急踊り子109号修善寺行に乗車できると良いのですが。新幹線は利用する予定はありません。普通列車でも可ですが、乗り継ぎが多いのです。特急に乗車し車窓を楽しみながら、少々、早い昼食を採っているかもしれません。三島到着は正午過ぎと推定しています。
追記)ここに来て、台風12号が接近して来ました。9/3の飛行機は飛ぶと思いますが、降雨他にて日程が大きく変化するかもしれません。その場合には、臨機応変に対応しようと思います。現在のことろ、9/4(日)、9/5(月)の天候が心配です。
7時55分発JAL688便に搭乗し東京へ飛びます。搭乗予定機材はBOEING737のはずです。台風12号の動向が懸念されます。
2015年11月から12月にかけて有給休暇を利用して強行した第2次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。12/2午前10時前には箱根西坂(箱根峠を介して三島側、小田原側を箱根東坂というそうです)の石原坂付近に居ました。兜石を過ぎて直ぐに、明治天皇御小休跡という石碑がありました。明治天皇が休憩されたのでしょう。
その直ぐ近くには、念仏石という案内板がありました。旅の行き倒れを宗閑寺で供養した記載があります。
こちらが、念仏石の全体像です。どこかに「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻印されているようですが、よく分かりませんでした。
さらに三島方面へ約10分程度、歩を進めると三島宿8.7Kmの案内がありました。写真では小さくて、判然としませんね。この付近を山中新田というのでしょうか。
約9Kmですが、この後、結構、距離があったと記憶しています。
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