旅行・地域

2017年5月24日 (水)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅84

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5正午頃には興津川を渡っています。ガイドブックによると旧東海道は現代では、このような狭隘な道となっているようです。心細いのですが進んでいくことにします。

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突き当りを右折すると、このような個人宅の裏庭のような道を進むことになります。

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突き当りを左折すると東海道本線と並行に走る道を西方向へ進むことになりました。この付近に居住している人でも、この道が旧東海道であるとは知らない人がいるような気がします。この道を進むと、

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国道1号線に合流しました。その場所に現在地を示す案内がありました。

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東海自然歩道バイパスコースを緑の破線で案内するものです。旧東海道は赤矢印(当方が追加)を進んで来たようです。クリックで写真が大きくなります。

2017年5月23日 (火)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅83

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5正午前には静岡県興津川付近に居ました。こちらは興津東町公園から駿河湾方向を撮影しているものです。緑色の鉄橋はJR東海道本線となります。こちらの鉄橋を潜り右折し、JR興津駅方向へ向かうことになります。

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すると薩埵峠街道の歴史なる案内がありました。ガイドブックに従い薩埵峠を通過して来ましたが、どうやら当方は上道(緑色破線)を通過してきたようです。

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案内には以下のようにあります。「下道 親知らず子知らずの道で海岸線の波打際を道路として利用していました。安政元年(1854年)の地震で海岸が隆起し、それ以後再び道路として利用されるようになりました」「中道 慶長年間から明暦年間まで主として利用されました。慶長6年(1601年)家康、伝馬制度(使者や物資を埋めで運ぶ交通制度)を設ける 慶長9年(1604年)五十三次宿駅制度確立  承応3年(1654年)峠道を開く」「上道 参勤交代で諸大名も通った道です。明暦元年(1655年)9月、江戸幕府は朝鮮使節の一行を迎えるにあたり開いた道で幕末まで利用されました」「脇道 通称じどうみちといい、上古から通行に利用されています」とあります。

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案内を見た後、興津川に掛かる橋を渡ってJR興津駅方向へ向かうのでした。写真左には駿河健康ランドの建物が見えます。サウナ、お風呂があったようです。

2017年5月22日 (月)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅82

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5正午前にはおきつ川通りに居ました。興津川に沿って道が走っているようです。

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興津東町公園前には、東海道難所薩埵峠之絵図なるものがありました。漫画で記載されているので親しみやすいです。図の下には、以下のような記載もありました。

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「安政の大地震で土地が隆起し、海岸線が通れるようになりました」とあります。

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また、「薩埵峠の下道は、親知らず子知らずの難所でした」ともあります。

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絵図の横には川越遺跡なる案内もありました。案内には、「蓮台または人足の肩ぐるまで川を越した」、「川の水深により料金が異なること」等が記載されています。水深が四尺五寸を越すと川止めになったこと、冬期は、仮橋が架かり無賃で渡れたとの記載されています。

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現在の興津川です。非常に川幅が広いことが判ります。水面は見えていませんね。

2017年5月19日 (金)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅81

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5午前11時半杉には静岡県薩埵峠を過ぎ白髭神社方面へ歩いていました。路傍には、このような新しい石碑がありました。往還坂と刻まれています。いかにも東海道を往還する人々が通過した坂なのです。

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同様に路傍には常夜燈もあるのでした。

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道案内に従いJR興津駅方向へ歩きます。白髭神社の境内を避けるように遠回りをして進むのです。

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瑞泉寺というお寺さん前に出てきました。JR興津駅までもうしばらくのようです。

2017年5月17日 (水)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅80

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5午前11時半過ぎには静岡県薩埵峠を下っていました。こちらは下ってきた坂を振り返って撮影したものです。結構、急峻な坂であることがお分かり頂けることでしょう。

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JR興津駅までの距離が記載されています。3.3Km, 60分とあります。不安が残ります。

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坂を下りきったことろは墓地で、杖入れがありました。多数の杖が残っていることから、この日、峠越えをした人が少なかったことが判ります。
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現在地を示すものがありました。このイラストでも山が海岸線に迫っていることが判ります。狭隘な場所を東海道本線と国道1号線が通過しています。

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JR興津駅に向かう道は、このように、ようやく舗装道路となりました。歩きやすいのですが、照り返しで暑かった記憶が残っています。

2017年5月15日 (月)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅79

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5午前1時過ぎには静岡県薩埵峠付近に居ました。旧東海道は、獣道のようです。一人どぼとぼ歩いて行くのでした。この付近で前後を歩く人はいませんでした。

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またもや案内がありました。「薩埵峠の歴史 鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引き上げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ。古?代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。岩城山ただ超え来ませ磯崎の不来海(こぬみ)の浜にわれ立ち待たむ このに道が開かれたのは1655(明暦元)年 朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。この道は大名も通ったので、道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である」

なるほど、安政の大地震が旧東海道に影響を与えているのでした。

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その隣にも案内板がありました。「薩埵山の合戦 薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名は、これより北方の峰続きに存在する。降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏眞はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北條氏と武田軍が二ヶ月余も対陣したが決定的な戦果ははなくて武田方が軍を引いた」

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更に旧街道を西に進むと、このような分岐となりました。ここには案内がないのです。どちらへ進むのか判りませんでしたので、安易に下り坂を選択したのです。結果的には正しい選択だったようです。後から考えると上道、中道を通過したようです。右の登り坂は薩埵峠脇道へ通じる道なのかもしれません。ここには是非とも案内が欲しいものです。

2017年5月12日 (金)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅78

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5午前11時過ぎには静岡県薩埵峠付近に居ました。またもや薩埵峠の案内石碑がありました。「いったいいくつあるんだ」と思いながら、案内板に近づきます。

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「風光明媚あn絶景の地」とあります。「その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人 山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。田子の浦 うち出でてみれば真白にぞ 不二の高嶺に雪は降りける  以下略」

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その上の案内には以下のような記載があります。「薩埵峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる3Km余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ケ原の戦いから間もない慶長6年(1601)のことで、その後一里塚なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下ることろより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です」

なるほど、薩埵峠には3道があるようです。

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この付近では、このような案内もありました。JR興津駅まで3.7Km、70分とあります。「普通、3.3Kmで70分は必要ないやろ」と思いつつ、「余程、悪路なのだろうか」と不安が起きるのでした。

2017年5月10日 (水)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅77

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5午前11時過ぎには静岡県薩埵峠付近に居ました。駐車場横のこのような細い道が旧東海道となります。周囲はびわ畑です。びわ畑は私有地となるので立ち入らないような注意書きもありました。これから急峻な坂となるのでしょう、歩道横には「杖入れ」があり自由に使用可能となっていました。

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駐車場横の細い街道を2,3分歩くと、展望台がありました。もう少し大きなものを予想していましたが、このような木造のこじんまりとした展望台です。勿論、階段を登って展望台から富士山方向をみてみます。

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またもやXF-1が不機嫌となりCasioのデジカメで展望台から撮影しています。東名高速道路(高架)と国道1号線が見えます。その彼方に本来であれば富士山が見えるはずなのです。この付近が浮世絵に最も近い位置なのでしょうか。雰囲気が良く似ています。

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この付近には、このような案内もありました。興津駅まで4.0Kmのようです。通常であれば、約1時間で興津駅に到着するはずです。

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展望台を降りて、再度、富士山方面をやや広角で撮影します。歩いて来た旧街道がいかに細いかが判ると思います。道幅は約1m程度だったと記憶しています。

2017年5月 8日 (月)

旅の思い出---第3次旧東海道徒歩の旅76

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2016年の夏休みを利用して強行した第3次旧東海道徒歩の旅を回顧しています。9/5午前11時前には静岡県薩埵峠付近に居ました。案内板がありました。当方は写真右下の緑色の破線の道を由比駅方向から歩いて来ました。これから左方向(西方向)へ進むことになります。デジカメXF-1が撮影可能となり、このカメラで撮影しています。
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薩埵峠駐車場から由比駅方面も再度、見てみます。富士山は見えません。

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駐車場には、このようなパネルがありました。晴天であれば、こちらのパネルのように絶景が見えるはずなのでした。

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案内板がありました。「左手・駿河湾を望む歩道を西に進むと、眼下に由比の町、彼方に富士を望む展望台があります。更に進めば、興津川を渡り興津駅に向かいます。 以下略」とあります。これらか西方向に進むことになります。どうやら展望台があるようです。期待しましょう。
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案内板にあった現在地を示す地図です。東海道本線、東名高速道路の上に居ることになります。

2017年5月 7日 (日)

井堰シリーズ---杉安井堰その1

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2017年の黄金週間4/30午前に杉安井堰を見学して来ました。自宅から高速道路に乗り西都ICで降りてから15分程度の距離だったでしょうか。4/30は天気も良く水を観察するには丁度良い天気だったのです。こちらは、西都土地改良資料館前にある案内です。児玉久右衛門杉安井堰に関しての記載があります。

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土手を上がって現在の杉安井堰を見てみます。非常に立派なコンクリード製の堰となっています。写真左が上流で、水が堰き止められているのが判りますね。


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対側には行けなかったので頭首工の取水口は見えませんでしたが、こちらの写真の赤い3点付近が取水口と推定されます。

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こちらは、水門の用水路側となります。水がなみなみと流れています。

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水門の直ぐ横には児玉久右衛門翁の胸像がありました。その周囲には何やら石碑が多数あるのです。

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児玉久右衛門翁胸像の対側には、このようなお宅があります。というより、こちらのお宅の庭先に児玉久右衛門翁の胸像があるのです。表札を見てみると「児玉久伸」とありました。

この後、西都土地改良資料館に入館したのですが、井堰作成に私財を投げ売った久右衛門翁に感謝の意味を込めて村人が家屋を建てたとあり、資料館にも児玉久伸氏寄贈の資料が残っていました。つまり、こちらは久右衛門翁の末裔となるのです。

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