旅行・地域

2018年5月23日 (水)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅136

Dscf3806 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前10時前には浜松市東区のJR天竜川駅付近の旧東海道に居ました。歩いて来た方向を振り返って撮影しています。現在の国道1号線と旧東海道が交差している場所となります。Dscf3807 この付近から東海道の松並木が残っています。案内板には、「旧萱場村から植松村まで、東海道筋のうち町屋が並ぶ場所以外には、松並木が整備された」とあります。Dscf3808 確かに、このような松並木が残存しているのでした。Dscf3809 少々、歩いた場所には立場跡の案内もありました。以前は、「藤棚があり旅人を楽しませた」とあります。Dscf3811 現在地(中央黄色)を示す地図がありました。当方は、地図左下から右上方向へ歩いていることになります。左折すると天竜川駅があるようです。Dscf3812 東海道案内板には、やはり、「江戸と京のどまんなか」という記載があります。袋井宿にも、同様のうたい文言がありましたね。浜松市は、現在、静岡県で最も人口が多く、平成19年4月に政令指定都市へ移行されたようです。

2018年5月22日 (火)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅135

Dscf3797_2 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時半過ぎには浜松市東区中野町付近に居ました。東海道松並木跡の案内板には、「中野町村の松並木の延長は北側100間、南測40間」とあります。Dscf3798_2こちらの案内板があった付近は、こちらの写真のように、今となっては松並木は見ることができません。 Dscf3800_2 さらに、中野町内には、「金原明善翁生家」なる石碑もあったのです。彼は、明治時代のこの付近の実業家で、治水工事に貢献したようです。Dscf3801_2 こちらが、金原明善翁の生家となります。非常に敷地面積の広い、純和風の建物だったのです。Dscf3802 本坂通(姫街道)安間起点なる案内もありました。ここは、江戸から64番目の東海道安間一里塚が両脇にあったようです。この一里塚は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたようですが、現存しないとも記載されています。Dscf3803 こちらが、おそらく姫街道を撮影したものだと思います。今となっては、思い出せません。Dscf3804 この付近では、ご丁寧なことに、当方のように東海道を歩く旅人に向け、写真のような案内があるのでした。非常に助かります。

2018年5月21日 (月)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅134

Dscf3789_2 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時半過ぎには浜松市東区中野町付近に居ました。「石垣清一郎生家」なる案内板がありました。彼は、「与謝野晶子が主宰する新詩社明星に参加した浪漫派歌人で」との記載があります。案内後半には、「嵐山光三郎は昭和17年、中野町の石垣家に生まれ、清一郎より文学の薫陶を受けた」との記載もあります。「最近、嵐山光三郎氏はテレビで拝見しないな」なんて思いながら、案内を読むのでした。Dscf3790 こちらが、その生家のようです。内科の開業医さんのようです。Dscf3791 さらに、少々、西方向へ歩くと、かやんば高札場跡の立て板がありました。「かやんば」とは、この付近の地名のようです。Dscf3792 すぐ近くには、松林禅寺の案内があります。案内板には、「境内の薬師堂は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させたものと伝えられている」との記載があります。すでに約400年が経過していることとなります。Dscf3794 こちらは、同境内にあったものです。先の案内にあったように、航空兵顕彰碑でしょうか。Dscf3795同境内には、こちらの案内もありました。延命地蔵尊、子育地蔵尊と記載されていることのみが判読可能です。Dscf3796 こちらが、その延命地蔵尊、子育地蔵尊なのです。

2018年5月19日 (土)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅133

Dscf3782 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時半前には浜松市東区中野町付近にいました。旧東海道には、こちらの案内板がありました。天竜川橋紀功碑と記載され、架橋した浅野茂平を称える石碑であることが記載されていました。

 Dscf3783 こちらが、その石碑の全体像となります。非常に大きなものであることが判ります。詳しくは、こちらをご参照で。Dscf3784 さらに、近くには「伊豆石の蔵」なる案内板がありました。天竜川流域は、江戸時代より船運を利用した交易で伊豆や江戸と繋がっていたこと、伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われたこと等が記載されています。Dscf3785 こちらが、その伊豆石の蔵となります。非常に重厚感のある立派な蔵でした。Dscf3786 さらに少々、浜松方向へ歩くと、「東橋」とあります。Dscf3787_2 下の案内板には、かつてここには土橋が架かっていたこと、中野長村では一番東の橋であること、明治後期から中野町は天竜川の船運による木材集積地として栄えたこと、堤防沿いに19軒の製材所が立っていたこと、この東橋が中野町繁華街への入り口であったこと等が記載されています。

2018年5月18日 (金)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅132

Dscf3774 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時半前には静岡県浜松市東区中野町の天竜川河畔に居ました。こちらにも中野町の案内がありました。東海道膝栗毛にも、ここから江戸へも60里、京都へも60里と記載されていることが書かれていました。Dscf3775 案内板付近は現在となっては細い道路で、東海道を示す道標もあったのです。Dscf3778 道標の近くには六所神社があります。Dscf3779 舟橋、木橋跡の案内がありました。それによると、明治元年天皇御東幸の際に舟橋が架けられたこと、明治9年に木橋に架け替えられたこと等が記載されています。この木橋は昭和8年の鉄橋が完成するまで使用されたようです。Dscf3780 さて、天竜川堤防沿いの散策を終え、浜松方向へ進みます。すると、すぐに「餃子の店かめ」なる看板がありました。当方も、「かめ」には敏感に反応してしまうのです。Dscf3781 西方向へ進むと直ぐに、こちらの案内がありました。中野町銀行跡とあります。交通、物流の要衝であった中野町には明治17年に銀行が設立されたようです。その後、吸収合併を経て、現在の静岡銀行となったようです。

2018年5月17日 (木)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅131

Dscf3763 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時過ぎには静岡県浜松市東区中野町の天竜川防波堤付近に居ました。樹木に進むべき道順を示す矢印がありました。優しい心遣いに感謝です。Dscf3764 こちらのように堤防を階段を使用して下っていくのでした。Dscf3765 すると直ぐに横町通りに関する案内がありました。江戸時代には東海道と渡船場を結ぶ往還として多数の旅人が往来したようです。筏師、船頭、小料理屋、銭湯、床屋、魚屋で賑わっていたようです。天竜川上流に鉱山があったことを今回初めて知りました。Dscf3766 横町には、このような案内もあり行ってみることにしました。Dscf3770 だた、こちらのような階段を登らなくてはなりません。天候も良すぎて気温が高く、少々、気合を入れて登坂したことを覚えています。Dscf3771 展望の道路沿いには、こちらのような石碑がありました。Dscf3773 案内には明治天皇が明治11年11月、北陸東海御巡幸の際に休憩されたことが記載されています。

2018年5月16日 (水)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅130

02 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。こちらが、先ほど渡ってきた天竜川の江戸時代の様子となります。勿論、橋は掛かってなく、渡船にて渡っていました。何だかこちらの方が風情があって良いようです。Dscf3753 さて、5/30午前9時過ぎには静岡県浜松市中野町付近の天竜川河畔にいました。新天竜川橋を渡ると公園のようなものが見えて来ました。Dscf3754 近づくと東海道案内とあります。た。Dscf3755 現在地を確認しましょう。天竜川河畔の堤防にいるようです。Dscf3756 現在地を示す地図の下には案内が記載されてます。要約すると、この付近は東海道と天竜形が交差する交通の要衝であったこと、中野町の由来としては江戸と京との中間に位置したこと、この先、西方向に新居関所があること、天竜川の水運により製材業が発達していたこと等の記載があります。そういえば、新居関所は箱根関所に並ぶ関所であったことが、長英逃亡という本にありました。Dscf3757 さらに旧東海道を歩く旅人用の周辺案内もありました。こちらの案内に従って進むことにします。Dscf3762 こちらの大きな案内板には、昭和初期の堤防沿いの製材工場の写真もあったのでした。同時は、製材業でこの付近は繁盛していたのでしょう。往時が偲ばれます。

2018年5月15日 (火)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅129

Dscf3745 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時前には静岡県天竜川付近に居ました。こちらは、天竜川橋となります。歩道がなく、人が通行することは不可のようです。この時点では、非常に不安を感じた記憶があります。何やら道が続いているので、そちらの方向へ行ってみました。Dscf3746 こちらの道をトボトボと歩いて行きました。すると、新天竜川橋に到達するのでした。Dscf3747 新天竜川橋には、きちんと歩道が整備されています。Dscf3748 新天竜川橋から天竜川橋を撮影しています。天竜川の水がとっても綺麗でした。Dscf3750 川の中では、釣りを楽しむ人がいました。これ以上、zoomできなかったので釣り人は小さく、写っています。Dscf3751 新天竜川橋から遠く、浜松方面を撮影したものです。写真中央に浜松駅前にある高層ビルを見ることができました。あとからこちらは、ハーモニカの形状をしたアクトシティ浜松であることを知りました。Dscf3752 新天竜川橋を渡りきる付近で、こちらの案内がありました。原付は、こちらで流出するようにあります。この「流出」という言葉が言い得て妙と思い撮影しています。

2018年5月14日 (月)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅128

Dscf3737_3 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前9時前には静岡県磐田市豊田町付近に居ました。例の旧東海道の道標がありました。道標には豊田町長森立場とあります。Dscf3738 その横には、長森立場と長森かうやくの案内がありました。立場とは、江戸時代では宿場と宿場の間に存在した休憩所であること、明治時代以降では人力車や馬車の発着場になったこと等が記載されています。また、長森かうやくは、江戸時代の前期万治年間(1658-1660)から、山田与左衛門が作り始めたあかぎれや切り傷に抜群の効果があった塗り薬との記載もありました。Dscf3739 長森を過ぎ、天竜川沿いを北上しています。すると、こちらの案内がありました。天竜橋跡とあります。案内には、明治6(1874)年に船橋が、明治9(年には木橋が架けられたことにより利便性が向上したことが記載され、橋の全長は1163m、全幅は3.6mであり、長い間、「はしぜに」が徴取されていたようです。木橋の位置を留めるために、この記念碑が建立されたようです。Dscf3740 こちらが、その石碑で、天竜橋跡と刻印されています。Dscf3742 天竜橋東の交差点まで北上して来ました。江戸時代では、この交差点より北に渡船場があったようですが、勿論、現在ではありません。橋を渡ることにします。Dscf3743 橋の方向へ向かうと、天竜川治水祈念公園なるプレートがありました。昭和40年に祈念碑が建立され、公園が整備されたようですが、平成14年国道1号線新天竜川橋の架橋に伴い、その姿を消したことが記載されています。Dscf3744 こちらには、このようなモニュメントがあるのでした。

2018年5月12日 (土)

旅の思い出---第4次旧東海道徒歩の旅127

Dscf3728 2017年5月に有給休暇を取得して実施した旧東海道徒歩の旅を回顧しています。5/30午前8時過ぎには静岡県磐田市宮の一色を通過しています。この付近に遠州鉄道の同名のバス停がありましたが、こちらの道標を優先しています。この付近にのみ、「東海道と歴史の道」なる道標があるのでした。Dscf3729 交差点の信号には森下南なる名称がありました。この付近の町の名なのでしょう。Dscf3731 この付近では旧東海道は、このような国道1号線の裏道となっているのです。Dscf3732 またもや、東海道と歴史の道の道標がありました。今回のものは案内板も付随しているのでした。オヤジとしては、勿論、自然に見入ってしまうのです。Dscf3733 案内には森下から一言坂付近までの約3Kmを磐田市は東海道と歴史の道と定めていることが記載され、案内の下には、この付近の名勝が紹介されているのです。若宮八幡宮は、各村にあった28の神社を合祀して建てられたこと、西之島学校は明治5年の学制施行とともに発足したこと、宮之一色秋葉燈籠、旧蹟提燈野(ちょうちんの)の石碑に関する記載もありました。Dscf3735 浜松方向へ歩くと直ぐに若宮八幡宮があるのでした。Dscf3736 こちらが、若宮八幡宮の表参道で、鳥居と本殿が街道沿いから見ることができました。

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